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第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサースト(、1762年5月22日 - 1834年7月27日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官。 1794年にバサースト伯爵を襲爵するまでは、「アプスリー卿」()の儀礼称号で称されていた。 == 経歴 == 大法官や枢密院議長()を務めた法律家・政治家の第2代バサースト伯爵と、妻のトライフィーナの間に生まれる。イートン・カレッジを経て、1773年から1778年までオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ〔。 1783年から襲爵により貴族院に移る1794年まで、グロスタシャー州サイレンスター選挙区選出の庶民院議員〔。議会ではトーリー党に所属。 ウィリアム・ピット (小ピット) と親しく〔〔〔、彼の下で1783年から1789年まで海軍本部委員()、1789年から1791年まで大蔵卿委員()、1793年から1802年までイギリス東インド会社監督局の委員()〔〔〔〔を務めた。1804年に小ピットが再び首相となると、バサーストは王立造幣局長()〔〔〔に任じられた。 第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクが1807年に組織した第2次内閣では商務大臣(; 商務院総裁)兼王立造幣局長〔〔〔として入閣、次のスペンサー・パーシヴァルのにおいても両方の職を引き続き務めた。また1809年には、外務大臣のジョージ・カニングと陸軍・植民地大臣のカースルレー子爵ロバート・ステュアートが決闘事件を起こして辞職したことを受け、2ヶ月間外相を兼ねた。 1812年、第2代リヴァプール伯爵ロバート・ジェンキンソンのにおいて陸軍・植民地大臣として入閣。バサーストは有能な大臣であり〔〔〔〔、半島戦争のさなか陸軍を担当する閣僚としての職務を全うした。次官のとともに陸軍・植民地省の改革も行い、青書()を導入した。ゴールバーンの後任の次官となったは、バサーストを以前この職を務めた誰よりも注目に値すると評した〔。また彼は人道的見地から奴隷制度廃止運動を支持していた〔。 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが1828年に組織したでは枢密院議長として入閣。トーリー所属でありつつもカトリック解放に賛成の立場をとっていたが、第1回選挙法改正案(; 選挙法改正法案)には強く反対した〔〔。1830年に退任し、政治家としてのキャリアを終えた。 1793年に枢密顧問官〔に列せられ、1817年にガーター勲章を授けられた。 1834年にロンドンで死去、グロスタシャー州のサイレンスターに葬られた。爵位は長男のが相続した。 オーストラリアのニューサウスウェールズ州にあるおよびバサースト市とノーザンテリトリー(北部準州)にある、カナダのニューブランズウィック州にあるバサースト市とヌナブト準州にあるバサースト島、ガンビアの首都バンジュールの旧名バサーストは、彼を記念して名づけられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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